今回もわたわたがnoteにて記事を投稿していたのでそれを読んで思ったことを書いていこうと思います。
なんか毎回恒例のようになってきましたが、自分にとっても考えるキッカケになるしブログを書く動機にもなって丁度いいと思うのでこれを続けていこうと思います。
本題に入る前にまずはわたわたの書いたやつ読んできてね。
⬇
描き続ける|サクラサク @grcrew_wata #note #私は私のここがすき https://note.com/watay_sakusaku/n/ndf07899e8faa
ではでは本題に入ります。
最初に言っておくと、僕はわたわたの考えとは違います。
ハッキリと違います。
例えばこの部分。
勝手なイメージですけど、大人って「夢を見よう」とか言うのに、具体的なアドバイスをしてくれることが少ない気がします。
特に「どうやって夢を見つけるのか?」
この問いに対する答えが腑に落ちたことが僕にはありませんでした。
「どうやって夢を見つけるのか?」と書いていますが、僕は夢は見つけるものではなくて見つかるものだと思っています。
そもそも僕は「夢」という言葉が少し嫌いで、それはなんというか、小さい頃から「あなたの夢はなに?」という問に対して明確に答えられたことがないからかもしれないです。
「夢」という言葉がコンプレックスというか、なんというか。
そんな自分が嫌で夢を探し続けてきて、見つからなかった結果出た答えは「夢は探すものではなくて見つかるもの」です。
あと僕がこの考えに至った要因として忘れられない言葉があります。
僕がまだ大学生の頃の話ですが、高校時代にお世話になった先生に会いに行ってこんなことを言いました。
「やりたいことが見つからないです。」
そうしたら先生は
「別に今はなくてもいいんじゃない?」
と言いました。
続けて
「その歳で夢がある人は恵まれていると思うよ。」
とも言いました。
なんかこの言葉がずーっと自分の中に残っていて、「夢」という言葉を耳にする度この言葉を思い出します。
その時の自分はやりたいことがない現状に焦りを感じていて余裕もなかったので全くその言葉を受け入れられなかったのですが、今思うととても貴重でありがたい言葉を貰っていたんだなと思います。
まあ、なので僕の「夢」に対しての結論は、なにかに熱中したとき、その先にあるのが「夢」です。
無理やり探すものでは無いと思います。
で、今回僕が言いたかったことって「夢」に対する考え方じゃなくて、意見や考え方が違うのって面白いよねって話です。
「夢」に関して言うと、わたわたは依存気味というか「夢」を凄く大事にしている。
それに対して僕は「夢」に関しては少しドライです。
なぜわたわたがこんなにも「夢」に対してこだわりが強いのかは本人にしか分からない事ですが、僕と比べて考えると少し思うことがあります。
それは自分が好きだということ。
わたわたは凄く自分が好きです。
それは言葉の節々から感じられて、正直僕はそれが羨ましい。
わたわたは自分のために行動できる人間で、僕はあまりそれが得意じゃない。
僕も自分のためとか言いつつも、結局のところ誰かとの時間とか誰かのためとか、そういったことが大好きで、それだけなら聞こえがいいんだけれど、自分を卑下するような所があって、それは良くないなと思っていたりします。
きっと僕とわたわたはそういう根本的なところから違っているんだと思います。
だけど初めて話した時からなんか仲良くなれそうな感じがしたし、気が合うなぁと思っていました。
ここら辺がなんか面白くて、わたわたと話す時も「俺はこう思う」の繰り返しなんです。
僕はこの気が合うけど考え方が違うっていうこの感じがたまらなく好きです。
なんか世間では「論破」とかなんとかが少し流行っていたりしましたが(多分)、意見なんて違うからおもしろいわけで、「君はそういう考えなのね」「僕はこういう考えだよ」が通用する世界になって欲しいなと思います。
久しぶりに書いたら少し疲れましたが、久しぶりにいい内容のものが書けたんじゃないかなと思います。
今回はこのくらいで。
ばいばい。